どこからがトレーサーと呼ばれるのか

https://twitter.com/parkour0108/status/903655664609660928

『どこからがトレーサーと呼ばれるのか 「頭でやりたい技・やりたいフローのイメージができて、それを表に出せる」時点で僕はトレーサーだと思います。』

たくみさんのツイート。いわゆる「トレーサーの定義とは」問題。

派閥

  • ウェルカム派閥「誰でもトレーサーだよ」
  • 実力派閥「ある程度実力は必要だよね」
  • マインド派閥「相応のマインドを持つ者のみがトレーサーである」

で、実際はどうなの?

データは無いが、 ウェルカム派閥が圧倒的に多い 印象。特に 各人次第という緩さ が備わっていることが多い。たとえば上記ツイートにしても、「やりたい技」や「やりたいフロー」はその人次第であるため、絶対的な実力は何ら関係がない。たとえば歩くこともままならない障害を持つ者でもトレーサーになれる。

しかしながら、同時に、パルクールの名前や文化そのものを損なうような行動を行う者はトレーサーではない、とすることが多い。要するに ウェルカム派閥であっても、ふさわしくない行動を取った者はウェルカムしない のである。

持論

ウェルカム派閥に概ね同意だが、除外判定の部分にはかなり乖離がある。具体的に言うと、私が持つ除外判定はかなり緩い。たとえばパルクールで犯罪を犯してニュースに載った愉快犯もトレーサーである。

一般常識、社会常識、マナーやルール、人としての当たり前を守ることが大切なのは言うまでもない。けれども、それとパルクールとは何ら関係が無い。もちろん社会で生きる以上はそうするべきなのだが、パルクールに「自分たちが生きている世界の制約」を自動的に注入されるのは、ちょっと違うなあと思っている。

とはいえ、パルクールは人としての在り方を養うものでもあるわけで、関係が無いわけでもない(しむしろ大アリと言う人もいるだろう)。それでも私は、関係無いと思っている。パルクールパルクールであって社会でも倫理でも道徳でもないんだよ。