自由と実力

https://twitter.com/parkour0108/status/900730908696690689

パルクールって部活みたいに教える人とか指摘する人とかいなくて自由に出来るスポーツだけど、裏を返せば成長がストップすればするほど動きが不自由になっていくスポーツだと思う。 最近の俺の状況成長しようにも成長できなくてトレーサーとして死んでいってるのがよく分かる。正直怖い。』

これを読んで、ふと自由とは何だろうと考える。

色んな観点の自由

色んな観点の自由があって、パルクールでも全部は満たせない、ということではないか。その「色んな観点」とやらがどうとでも言えそうだけど、たとえば以下のように捉える。

  • (A)他者や場によって制限されないこと
  • (B)自分の実力の無さによって制限されないこと
  • ©自分の日常生活の都合によって制限されないこと
  • (D)自分の心身状態によって制限されないこと

そのうちパルクールが担保してくれるのは?

パルクールが担保してくれる自由は、実は (A) だけ。

でも (A) を謳歌するためには実力が必要。実力もないのに「一人で何でもできるんですよ」「誰も何も言いませんよ」と言われたところで、途方に暮れるだけ。

この事は、既に染まってるトレーサーにはピンと来ないだろうけど、別のたとえを使うとピンと来る。たとえば、熟練したプログラマーならパソコン一つで一生自由に遊べるけれど、パソコンを知らない素人にパソコンを与えたところで、やはり途方に暮れるだけ。

実力の付け方

(A) を味わうには実力が必要だけど、(A) の下で実力を付けるのは難しい。

学生は割と高度なスポーツ技能を有しているけど、それは(引用元でも言及しているように)部活があるから。詳しい先生や先輩が丁寧に教えてくれるし、サボっちゃいけない怠けちゃいけないという場の強制力があるし、あんな先輩になりたいとかあいつに負けたくないとかあの子にいいところ見せたいとかいったやる気発生の機会もある。一人で取り組むよりも何倍も、何十倍も効率的かつ効果的だ。

ところがパルクールはどうか。部活みたいなものはない。せいぜい全国のごく限られた場所で、限られた頻度で練習会が開催される程度である。仮に毎回参加したとしても、部活の頻度と質には到底及ばない。

しかし一方で、スピーディーに成長していくトレーサーもいる。中には開始から一年でベテラン勢に加わる者も。才能(一人でも成長していける資質)を持ってるケースもあるけど、たいていの場合は 仲間と練習している というだけだ。自分から積極的に行動して、仲間つくって、一緒に行動することで 部活みたいな状態を自らつくっている(本人にはそういう意図や意識が無いこともある) にすぎない。

(A) を味わうために、最初は (A) を犠牲にする

前々から思っていたのは「部活みたいな環境があれば、割と誰でも成長しやすいのではないか」ということ。早い話、学校の部活みたいな濃密な機会を、パルクール界隈にも導入するということ。

……ごく当たり前の結論を言っているだけもかもしれない。けど、こうしてちょっと考えてみて、改めてこの結論が強固なものとなった。